錬金術つかい(寛訳20)(“El Alquimista”)

第二部

少年はほとんど一か月ガラス商人のために働いており、それは彼を幸せにする類の仕事というわけではなかった。商人は一日中陳列台の後ろでぶつくさ言って過ごし、商品に気を付けるように、何も壊したりしないようにと要求していた。

しかしこの仕事を続けていたのは商人が年老いた短気ではあったが不公平ではなかったからだ。少年は売れた商品ごとに良い歩合を受け取り、すでにいくらかの金を集めることができていた。その朝ある計算をしていた。この調子で毎日働き続けたとしたら、何匹かの羊を買えるようになるには丸一年が必要だった。

「ガラスに重ね棚を作りたいのですが」、少年は商人に言った。「坂道の下のほうを通る人たちを引き付けるためにそれを外側に置いてはどうでしょう。」

「今まで重ね棚なんて一度も作ったことはないよ」、商人は言った。「人々が通りすがりにつまずいて、ガラスが壊されてしまうかもしれない。」

「僕は野原を羊たちと歩いていた時、もし蛇に出会ったら彼らは死ぬかもしれませんでした。でもそれは羊たちそして羊飼いの人生の一部です。」

商人はガラスの水差しを三つ求める客に応対した。かつてないほどによく売れており、その通りがタンジェの主要な盛り場だった良き時代が戻ってきたかのようだった。

「客足はもうずいぶんよくなったよ」、客が去って少年に言った。「この金によって私はよりよい暮らしができるしもう少しすれば君を羊たちのもとに返してくれるだろう。何のため人生により多くを求めるんだい?」

「僕たちはしるしをたどらないといけないからです」、少年は応えた、ほとんど望んだわけでもないのに。そして言ったことについて後悔した、というのも商人は王というものに会ったことがないのだ。

『恵みの始まりという、始めたばかりの人の幸運だ。なぜなら人生は君に君の私伝説を生きてほしいからだ』、老人は言っていた。

商人は、しかしながら、男の子が言ったことを理解していた。彼が店にいるというただそれだけのことがすでにあるしるしだったし、日々帳簿に入ってくる金があって、彼はスペイン人と契約したことについて何も後悔していなかった。男の子はしかるべき額より多く稼いでいたのではあるが、彼は売り上げがすでにかつてないほど伸びていると考えており、高い歩合を与え、そして彼の直感は間もなくその男の子が自分の羊たちと一緒になると告げていた。

「どうしてピラミッドを知りたいんだい?」重ね棚の話題を変えるために尋ねた。

「ずっとそれについて僕に話してきたからです」、男の子は夢については触れずに言った。今や宝はいつも苦しい思い出であり彼はできるだけそれを避けようとしていた。

「ピラミッドをただ知るというだけのために砂漠を横断したいなんて私はこの辺りでは一人も知らないよ」、商人は言った。「ただの石の山なんだ。君だって君の畑にひとつ作ることができるさ。」

「あなたは一度も旅することを夢見たことがないのですね」、少年は言いながら、店に入ってきた新たな客の応対をしに行った。

二日後に老人は重ね棚の話をしに少年のところへ行った。

「変化は好きじゃないんだ」、彼に言った。「私も君もハッサンのような者じゃない、豊かな商売人のね。彼がある買い取りで間違えたとして、それは大した影響にならない。でも私たち二人はいつだって私たちの失敗と付き合っていかないといけない。」

『それは本当だ』、男の子は思った。

「なぜ重ね棚を作りたいんだい?」商人は尋ねた。

「できるだけ早く羊とともに戻りたいのです。運が私たちの側にあるときにそれを活かしてそれを支えるためにできる全てのことをしないといけません、運が私たちを支えてくれているのと同じように。恵みの始まりと言います、あるいは『始めたばかりの人の幸運』と。」

老人はしばらくのあいだ黙っていた。それから言った。

「預言者は私たちにコーランを与えて私たちがある限り従うべき五つだけの義務を残した。最も重要なのは次のことだ、ひとつの神があるだけである。他のものは、一日に五度祈ること、ラマダンの月に断食すること、貧しいものに慈善を施すこと・・・」

途切れた。預言者について話をしていて彼の目は涙であふれた。短気な男でありまた、その我慢できない性格にもよらず、イスラム法に則って人生を生きようと努めていた。

「それで五つ目の義務とは何ですか?」少年が尋ねた。

「二日前に君は私が一度も旅することを夢見たことがないと言ったね」、商人は応えた。「全てのイスラム教徒の五つ目の義務とは旅をすることだ。私たちは、少なくとも人生で一度は、メッカの聖なる町に行かなくてはならない。」

≫メッカはピラミッドよりもずっと遠くにある。若いころ、この店を始めるために手持ちのわずかな金を集めることにした。メッカに行くためにいつの日か豊かになることを考えていた。金を稼ぎ始めたが、とても繊細な物なので誰にもガラスの面倒を委ねることができなかった。時を同じくしてあちらの方向へとたどるたくさんの人々が私の店の前を通っていくのを見ていた。何人かの巡礼者は裕福であり召使の従者とラクダと共に進んでいたが、人々のほとんどは私よりもずっと貧しかった。

≫みなが行って満足して帰ってきて、その家の扉に巡礼の象徴をつけていた。戻ってきたうちの一人、他人の長靴を修理して生きていた靴屋は、ほぼ一年ほど砂漠を歩かなくてはならなかったが、革を買うためにタンジェでいくらかの街区を歩かなくてはならない時のほうがずっと疲れると私に言った。

「なぜ今メッカに行かないのです?」少年は尋ねた。

「メッカは私を生きさせているものだからだよ。私に同じ毎日、棚で黙っている水差し、あのひどいレストランでの昼食や夕食を辛抱させているものなんだ。夢を実現してそれから生き続ける意欲がもう持てなくなるのが怖ろしい。」

≫君は羊とピラミッドの夢を見ている。君は私とは違う、夢を実現しようと願っているからね。私はメッカの夢を見たいだけなんだ。もう何千回も砂漠の横断、聖なる石のある広場への到着、それに触る前にその周りでしなくてはならない七度の周回のことを思い浮かべた。もうどんな人々が私の横、私の前にいるか、共に分かち合う会話や祈りも思い浮かべた。だけどそれが大きな失意になることが怖ろしくだからせいぜい夢見ているくらいのほうがいいんだ。

その日商人は少年に重ね棚を作る許可を与えた。全ての人が同じように夢を見られるわけではないのだ。

~続く~


2時間55分。

コーランの五つの義務が出てきた。改めて調べるとこれは五行と呼ばれるもので、信仰告白、礼拝、喜捨、断食、礼拝。これが五つの義務。

信仰告白の部分、「アッラーのほかは神はない、ムハンマドはその使徒である」を告白すること、らしい。作中のスペイン語ではsólo existe un Diosとあって、「ひとつの神があるだけである」と訳してみた。まあ、そんなに外れてはいないかな。

短気なじいさんが泣き出すところはなかなか面白いというかオオ、と少し気を取られる。でもあれ五つ目の義務って?自分でネットで調べるか・・・と思ったらすかさず質問をぶつけるサンチアゴ少年、でかした。

さて今回は分量がものすごく多いわけではないと思ったけど、トリッキーな表現がいくつかあって時間がかかってしまった。そのうちでもかわいい顔して割とやるもんだったのがこれ。

Podríamos colocarla del lado de afuera para atraer a los que pasan por la parte de abajo de la ladera.

寛訳:坂道の下のほうを通る人たちを引き付けるためにそれを外側に置いてはどうでしょう。

このdel lado de afueraっていうのが、よくわからず。これは文脈から察してもいろいろ調べても「外側に」という意味らしいのは分かったけど、構造は最後までよくわからなかった。なぜdel?alじゃなく?副詞afueraの前にdeがくるってどういうこと?というかこの節全体がafueraひとことで良さそうなのになんなの?という思いはぬぐえぬままでした。

もう一つ細かいところだけど、今節でちょいちょい出てきた棚。少年が作りたいestanteríaは辞書で引くと「[何段もある]棚」とある。まあいい、棚だ、少年は棚を作りたい、商人が渋る、そんなの作ったことないし。終盤になって商人がメッカのおかげで生きながらえていると独白、棚に置いた水差しに辛抱している・・・。ん、棚あるやん・・・。よく見ると水差しが黙っているのはestante、和訳「棚、棚板、本棚」だった。

つまりestanteとestanteríaという別のものがある。商人の水差しはestanteつまり一段きりの棚に置かれている。少年が作りたいのはestantería、何段もある棚だ。日本語にしたらどちらも棚。何段あったって一段しかなくったって棚は棚、そこには差別も区別もない。「その棚の2番目の棚」は正しい日本語なのだ。ごはんの時間だけど、ごはんとパンどっちにする?である。・・・ではしかし、この寛訳上でどう区別をつければいいんだ、類語辞典を引いてもなかなかしっくりくるものに行き着かない、毎回「僕は何段もある棚を作りたい」「何段もある棚なんて作ったことないぞ」とは言わせられない、かといって原文で明らかに語幹の共通している二語を「棚」と「台」に分けるのも主義に反する・・・。

そうこうしているうちにおなかが減ってきたので、ごはんの時間にごはんを食べながらモヤモヤ考え、思いついたのが、「重ね棚」だったのである。もうこれしかなかった。「棚」のほうを「一枚棚」にすることも考えたけど、「棚はない」と言った後に「一枚棚はある」と言うよりも、「重ね棚はない」と言った後に「棚はある」と言ったほうが、包含関係が正しいような気がした。なんとなくこう、イメージできなくはないでしょう?

そんなものはないとか、勝手な言葉を造るなとか、クレームは控えていただきたい。いちおう検索すると「重ね棚」なるものは出てくる。重ねられるようになっている自立性の一段の棚のようだ。サンチアゴ少年が作ろうとしているものが重ねられるようになっている自立性の一段の棚でなかろうことは重々承知している。彼が作ろうとしているのは、棚としての重ね棚である。そのつもりで読んでいただけると嬉しいです。・・・でも読み直してみて気になるので良い代替案が思いついたらこっそり書き換えたい・・・。

今回の写真はグアテマラの秘境セムクチャンペイSemuc Champey。川が棚状になって流れています。行くにも帰るにもバス10時間くらいの秘境、きれいだった!2020年2月。外に出られたあのころ・・・。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *