キャラバンは西の方向へと進み始めた。朝から旅をし、日差しが最も強い時には留まり日暮れには道を続けた。少年はほんのわずかにイギリス人と会話をし、イギリス人はほとんどの時間自分の本で気晴らしをして過ごしていた。
それから動物と人間との砂漠の行進を黙って観察することに打ち込み始めた。今やすべてが出発の日と大いに違っていた。あの困惑、叫び、涙、赤子そして動物たちのいななきの日は案内人たちと商人たちによる神経質な指示とともに混ぜこぜになっていた。砂漠では、代わりに、ただ悠久の風、沈黙そして動物たちのかぶとだけだった。案内人たちさえ彼らの間でほとんど会話をしていなかった。
「もう何度もここらへんの砂地を渡ったよ」、ある夜ひとりのラクダ引きが言った。「でも砂漠はあまりにも大きく、地平線はあまりにも遠いものだから、自分をちっぽけに感じさせて黙りこくらせてしまうんだ。」
少年はラクダ引きの言いたいことを理解した、砂漠にかつて足を踏み入れたことはなかったのではあるが。海や炎を見つめるたびに何時間でも黙っていることができた、何も考えることなく、基本原理の巨大さと力に浸って。
『羊たちと学びガラスと学んだ』、思った。『砂漠と学ぶこともできる。これはもっと年を取っていてもっと賢いみたいだな。』
風はまったく止まなかった。少年はこの同じ風を、タリファの要塞に座り、感じた日のことを思い出した。今頃はアンダルシアの野原で食べ物と水を求め続ける彼の羊たちの毛を優しく撫でつけているかもしれない。
『もう僕の羊たちじゃないんだ』、彼自身に言った、しかし心残りはなかった。『他の羊飼いに慣れたに違いないしもう僕のことを忘れただろう。そのほうが良いんだ。旅することに慣れた人、羊飼いのような人は、いつか発つ必要があることをいつでも知っているんだ。』
商人の娘のことをそれから思い出してすでに結婚しただろうと確信した。同じように読むことができて途方もない物語を語るようなポップコーン売りあるいは羊飼いと一緒になったかどうか誰にわかるだろう、結局のところ彼は唯一ではなかったはずだ。だが彼はその予感に胸を打たれた、おそらく彼は全ての人々の過去と現在を知っている宇宙の言語の物語のことも学んでいたのかもしれなかった。『予感』、彼の母親がいつも言っていたように。少年は予感というものがこの生の宇宙の流れのなかに魂がぱっと没入することだと理解し始めた、その流れのなかでは全ての人々の物語は互いに結び付けられており、全てを知ることができるのだ、なぜならば全ては記されているからであると。
『マクトゥブ』、少年は自らに言った、ガラス商人を思い出しながら。
砂漠は時には砂で、時には石でできていた。もしキャラバンが石の前に着いた場合には、沿っていったし、もし岩にぶち当たったら、大きなまわり道をした。もし砂がラクダのかぶとに対して細かすぎたら、より抵抗のきく場所を探した。時として地は塩に覆われており、それはそこに湖があったであろうことを示していた。動物たちはそうすると訴えかけ、ラクダ引きたちは下りて休ませた。それから荷を自らの背中に負って、その油断ならない地を通り越しそれから改めて動物たちに荷を負わせた。もしひとりの案内人が病気になり死ぬと、ラクダ引きたちはくじ引きをして新しい案内人を選んだ。
だがこれら全てのことはただひとつの理由の下に起きていた、何度もしなくてはならなかったまわり道を経て、キャラバンは常にある同じ点への針路をたどっていたのだ。障害物を乗り越えたのちに、キャラバンは改めてオアシスの位置を示す星に正面を向けた。人々は朝方に空に光るその星を見る時、それが女たち、水、デーツそしてヤシの場所を指しているのだとわかっていた。ただイギリス人だけはこうした全てのことに気づいていなかった、自分の本を読むことにほとんどの時間没頭していたのだった。
少年もまた本を持っていて旅の最初の数日は読もうと努めていた。しかしキャラバンを見つめ風を聞くのがもっとずっと面白いと気がついていた。それで自分のラクダをよりよく知ることを身につけ、そのラクダを好きになったことで、本を捨てた。不要な重荷なのだった、その男の子は本を開くたびに何か重要なことに出会うという迷信を抱いていたのではあるが。
常に彼の隣を旅していたラクダ引きとはとうとう友人になった。夜、留まって焚火の周りで休んでいる時には、羊飼いとしての冒険をラクダ引きに語るのが習慣になっていた。
その会話の中で一度、ラクダ引きが今度は彼の人生の話を始めた。
「僕はカイロの近くの場所に住んでいたんだ」、語った。「畑、子どもたち、死の時まで変わることのない生活があった。収穫が多かったある年、みんなでメッカまで行って僕は人生で果たせず残っていた唯一の義務を果たした。安らかに死ぬことができ、その考えは僕を愉快にした。」
≫ある日大地が揺れ始め、ナイル川が氾濫した。他人に起きているだけだと思っていたことが、ついには我が身に起きた。隣人たちは洪水でオリーブを失うことを恐れ、僕の妻は僕らの子どもたちが水に流されてしまうことを恐れ、そして僕はそれまでにものにしてきた全てが壊されてしまったのを見るのを恐れた。
≫だが解決策はなかった。大地は使えなくなり生きていく他の方法を探さなくてはならなかった。今日僕はラクダ引きだ。しかしまったく僕はアラーの言葉を理解したんだ、何人も知らないことを恐れることはない、なぜならどんな人も望み必要とすることをものにすることができるのだからという。
≫単に持っているものを失うことを恐れているんだ、それは私たちの生活かもしれないし私たちの農園かもしれない。だがこの恐れは私たちの物語と世界の物語が同じ手によって記されたんだということを理解したときには過ぎ去るのさ。
~続く~
3時間4分。
ついに、やっとこさ、キャラバンが進み始めました。今か今かと焦らされましたが、出発したと思ったらもう砂漠で何度もまわり道してました。展開の緩急!
羊飼いと言い、このラクダ引きと言い。動物を連れて回る人たちには深みが出るのかな?このラクダ引きさんも素敵だと思います。アラーの言葉として紹介されているけど、「何人も知らないことを恐れることはない」の台詞が好き。恐れないつもりだけど、恐れているとも思う。しかし、恐れるな。ちなみにここは「なんびと」と読んでいただきたいところでした。
さてスペイン語小話ですが、今回はちょっとショッキングというか驚くことが冒頭で起きました。冒頭の、一番最初の文です。
La caravan empezó a marchar en dirección al poniente.
El Alquimista. Autor: Paulo Coelho. Translator: Monserrat Mira. Editor: Penguin Random House Grupo Editorial
寛訳:キャラバンは西の方向へと進み始めた。
西?あれ、スペインから海を越えてモロッコのタンジェにいたんですよね?エジプトに向かうんですよね?ponienteって、こないだ見ましたけど、日が落ちる方角で、西ですよね?あれれ、なんだろう間違いかな?
いくつか前の節で改行が抜けているという編集ミスがあったのも頭をよぎり、ひょっとしたら何かの間違いかもしれないと。で、その編集ミスを確認したときにも用いた、kindle版のEl Alquimistaでも、ponienteに向かっているのか見てみることにしました(印刷版のEl Alquimistaを手に入れる前に、kindle版も買っていたのです)。そこで驚きの事態が発生。
La caravana se dirigía hacia poniente.
El Alquimista. Autor: Paul Coelho. Translator: ?? Editor: Sant Jordi Asociados
・・・おや??うん、ponienteに向かっている、それはわかった、どうやらミスではなくて西に向かっているのだろう、ひょっとしたら岩があって西からぐるっとしなくちゃいけないのかもしれない。それはまあ良いこととして・・・あれれ。
文章かなり違ってない??
これは、けっこうな衝撃でした。僕がずっと読んできているのは印字版で、「キャラバンは西の方向へと進み始めた」と訳したわけだけど、kindle版のスペイン語を訳すとしたら「キャラバンは西へと向かっていた」になる。大まかな方向、それこそキャラバンの進む方向は同じだけれども、その時に「進み始めた」のと、その時すでに「向かっていた」のでは、動作が全く違う!
えーこんなに訳によって違うの!?というのがショックでした。原文のポルトガル語で読めていないのは仕方ないとしても、スペイン語とポルトガル語とはかなり似通っているから、作者が用いた言葉遣い、息遣いがかなりの部分きっと残されているだろうと信じ、一語一語を丁寧に読んできたつもりなのです。それが、こんなに違うとは・・・。
まあここまで印字版、Monserrat Miraさんのスペイン語訳を対象に寛訳を作ってきたし、ここからも同じ情熱で進めていこうと思います。ただ、本当に、訳者によって、たとえ微小な違いだとしても、違いがどんどん生み出されていく。わかりきったことでもあったけれども、それを改めて感じ、言葉と丁寧に向き合うこと、できるかぎり生の言葉に向き合うこと、そしてもちろん自分の言葉も丁寧につむぎ出していくことを大事にしていこうと思いました。
機械学習などが進み翻訳ソフトがものすごいスピードで高精度化していくなか、近く外国語を勉強する必要ってなくなるんじゃないかという考え方があり、それは一通りの基本的な業務を進めていくうえでは実際にそうなりつつあるのかもしれないと思う。だけど僕は、人が「ごはん」と言っているのか「食事」と言っているのかを聞き分けたいし、「ひとり」と「一人」を書き分けたい。それも翻訳ソフトでいずれできるようになる/既になっているのかもしれないけど、何かは取り残されるんじゃないかな、と、古い人間になりつつあるからなのかもしれないけど、思うのでした。
訳の違いのところでたくさん書きすぎたので、他の細かい話は止めにしておきます。メモだけ残すと、elementos/基本原理と、再登場したconquistar/ものにする。
写真はニカラグアの首都マナグアにあるニカラグア日本友好公園。けっこう広いわりに手入れも行き届いていて良い公園という印象、少なくとも2016年9月の撮影当時は。正面の鳥居はもとより、中には日本庭園を模したものや富士山のモチーフなどもあって見るものを飽きさせない、のだけど、、、やっぱまあ違う。ほとんどの日本まで来られない人にとって少なからず日本を感じられる場所になっているのだろうけど、「その日本」しか知らないということになると思うと。もしも可能なのであれば、やはりそのホンモノに触れることができると良いよなと思う。