錬金術つかい(寛訳35)(“El Alquimista”)

『時が急いているときには、キャラバンもまた走る』、錬金術師は思った、数百の人間たちと動物たちがオアシスに到着するのを見ながら。住民たちは着いたばかりの人々の後ろで大声を出していて、ほこりは砂漠から太陽を覆っていて子どもたちは見知らぬ人々を見た興奮で飛び上がっていた。錬金術師は部族長たちがキャラバンの隊長に近づいて彼らの間で長々と言葉を交わしている様子を見た。

しかしそのいずれも錬金術師の興味をひかなかった。もうたくさんの人々が到着し出発するのを見てきて、その間もオアシスと砂漠は変わらずにいた。王たちや乞食たちがその砂を踏みしめるのを見てきた、風のために常にかたちを変えながら、しかし彼が子どものころから知っているのと同じその砂を。それでも、彼は心の奥底で人生の少しの喜びを抑えることはできなかった、どんな旅人も、黄色い大地と青い空の後に、ヤシの木々の緑がその眼前に現れた時に体験する喜びを。『ひょっとすると神は人がヤシの木とほほ笑むことができるように砂漠を創ったのかもしれないな』、思った。

それからもっと実際的な用件に集中することにした。そのキャラバンで彼がその秘密の一部を授けなくてはならない男が来ていることを知っていた。しるしが彼にそのことを語っていた。まだその男を知らなかったが、彼の経験豊かな目は見ればすぐにそれと見分けるだろう。かつての弟子のように能力ある者であることを期待していた。

『なぜこうしたことが口から口へと伝えられなくてはならないのかわからない』、思っていた。秘密だからというわけではなかった、神はその秘密を全ての創造物に惜しげもなく明らかにしていたのだから。

彼はただこの事実についてひとつの説明を持っていた、これらのことはこうして伝えられなければならない、なぜならこれらは清らかな生により成されたようで、この類の生は絵画や言葉に閉じ込めがたいのだ。

人々は絵画や言葉に惹きつけられてしまって、世界の言語をとうとう忘れてしまうから。

~続く~


52分。

なんともまーあっさりと錬金術師が登場しちゃいました。え、こんなあっさりでいいの?と思いましたが。もう、登場しちゃったんで、もうそういうことで進めることにしましょう。

今日のスペイン語小話はふたつ。ひとつはあれ、なんで単数?問題。

Aun así, no conseguía contener en el fondo de su corazón un poco de la alegría de vida que todo viajero experimentaba cuando, después de tierra amarrilla y cielo azul, el verde de las palmeras aparecía delante de sus ojos.

寛訳:それでも、彼は心の奥底で人生の少しの喜びを抑えることはできなかった、どんな旅人も、黄色い大地と青い空の後に、ヤシの木々の緑がその眼前に現れた時に体験する喜びを。

このtodo viajero experimentabaっていうところで、なんでtodos los viajeros experimentaban/全ての旅人たちが体験する、っていう複数形じゃないんだろう、と思ったのです。辞書で調べると、トドは無冠詞の単数名詞にくっついて「どんな・・・も」という意味になるのだそうです。ちょっと面白いと思ったので抜き出します。

[+無冠詞の単数名詞]どんな…も〔それぞれに〕
〖 類義.cadaと異なり本質的特徴や定義づけを述べる〗:
Todo hombre es mortal. どんな人でも必ず死ぬ〖× Cada hombre es mortal.〗
Todo día trae sus penas. 日々それなりの悩みがある
〖○ Cada domingo viene a comer con nosotros.〗彼は日曜日ごとに食事を一緒にしに来る × Todo domingo viene a comer con nosotros.
〖○ Hay que repartir esto a cada miembro.〗これを各メンバーに配らなければならない × Hay que repartir esto a todo hombre.

現代スペイン語辞典(改訂版) 白水社 2016年1月30日 第18刷発行

本質的特徴や定義づけ、ということで、この表現が遣われているのですね。todosで全ての旅人たちにすると、定義づけとしての性格が薄れてしまうということだと思いました。勉強になりましたっす。

ただ内容としてはこの部分、たどり着いた旅人の喜びを錬金術師が抑えることができない、と言っているわけで、ちょっと理解しきれないところでもあります。んー。まあそういうこともあるでしょう。

もうひとつはスペイン語の難易度は高くないけど表現の曖昧度が高くて捉えにくくなっている箇所です。

Él sólo tenía una explicación para este hecho: las cosas tenían que ser transmitidas así porque estarían hechas de Vida Pura, y este tipo de vida difícilmente consigue ser capturado en pinturas o palabras.

寛訳:彼はただこの事実についてひとつの説明を持っていた、これらのことはこうして伝えられなければならない、なぜならこれらは清らかな生により成されたようで、この類の生は絵画や言葉に閉じ込めがたいのだ。

この、これらの、こうして、これらは、この、・・・このこのこのーっ!って感じです。ただゆっくり読み解けば理解は可能、たぶんスペイン語のほうが性数一致のおかげで読み取りやすいので(僕の訳ではわかりにくいかもしれないので)、いちおう解説みたいなものを載せておきます。estas cosas, las cosas/こうしたこと、という曖昧な表現もまた理解を難しくしている感じ。

寛訳説明()付き:彼はただこの事実(「こうしたこと」が口から口へと伝えられなくてはならない事実)についてひとつの説明を持っていた、これらのこと(=「こうしたこと」。明示無し)はこうして(口から口へと)伝えられなければならない、なぜならこれら(=「こうしたこと」。明示無し)は清らかな生により成された(≒作られた、形成された)ようで、この類の生(清らかな生)は絵画や言葉に閉じ込めがたいのだ。

ちなみにVida Pura/清らかな生という新たな言葉が出てきました。なんだいこれは。ちょっとまだ理解が及びません、世界の言語と同じものかしら?これから進めながら読み取っていきたいと思います。

今日の写真はPura Vida!(Vida Puraではない)が合言葉のコスタリカで見にいったケツァールです。いやぁ~これわ綺麗だった!もう少し横を向いてくれたら可愛いお顔がもっと見られたんだけど、この尾っぽのなびき方がとてもよく撮れたこの一枚が大のお気に入りです。2017年11月。
ちなみにコスタリカにおけるPura Vidaは挨拶とかキャッチフレーズとか何にでも遣われているけど、コスタリカ人のスペイン語の先生はあまり好きではないみたいでした。日本語で対応するのは「いい感じ」あたりかな。

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