地平線は赤く染まりそれから太陽が現れた。少年は父との会話を思い出して幸福を感じた。すでに多くの城や女性を知ることができていた(二日後に彼を待っていたものと同じものは何ひとつなかったが)。上着と、他のものと交換できる本そして羊の群れを持っていた。最も大事なことは、しかし、一日一日その人生の大きな夢を実現しているということだった。旅をするという。アンダルシアの野原に疲れたときには羊たちを売って船乗りになることもできた。海に疲れたときには、たくさんの町々、たくさんの女性たちそして幸せであるためのたくさんの機会を知っているだろう。
「神学校でどうやって神を探すのか理解できないな」、日が昇るのを見ながら思った。できる時はいつでも違う道を歩けないか探していた。あのあたりは何度も通ったというのに、あの教会には行ったことがなかった。世界は大きく無尽蔵で、もし彼がちょっとでも羊たちに案内させるままにしたら、もっと多くの面白い出来事に巡りあうことになるのだった。「問題は彼らが毎日新しい道を行っていることに気づかないことだな。牧草地が変わったこと、季節が違うこともわからない、だって水と食べ物のことしか気にしていないから。ひょっとしたら僕たちみんなにも同じことが起きているのかもしれない」、羊飼いは思った。「僕だって、あの商人の娘に出会ってから他の女性のことは考えていないのだから。」
空を見てタリファには昼食の時間前に着くだろうと計算した。そこで本をもっと厚みのあるものに交換し、ワイン袋を満たし、髭を剃って髪を切ることができる。あの女の子と会うためにきっちりしなくてはいけなかったし、彼よりも先に他の羊飼いが、もっと多くの羊を連れて、結婚の申し込みに行っている可能性を考えたくなかった。
「これはちょうど面白い人生を変えてしまう夢をかなえる可能性っていうことだ」、そう思いながら、再び空を見て足を速めた。タリファには夢の解釈をできる老女が住んでいることをちょうど思い出していた。そして彼はその夜に繰り返す夢を見ていたのだった。
~続く~
「pedir la mano」、そのまま直訳すると「手をお願いする」で、意味としては「結婚を申し込む」。日本語にはない表現だなあと思った。ん、日本語だと「味噌汁をお願いする」のかな。いやちょっと古いか。男も台所に立つ時代!
ところで「セミナー」seminarioも「神学校」だったって、知らなかった。何も知らずに大学生の時とかかなりセミナーしてたものである。
今回よくわからなかったのは “Es justamente la posibilidad de realizaar un sueño lo que torna la vida interesante” のlo。どういう意味・役割なのかしら?これがなくても小難しい文章な気がするけど。「これはちょうど面白い人生を変えてしまう夢をかなえる可能性っていうことだ」なんて訳してみたけども、ここは座りが悪かったです。
と、スペイン語の反省とかを書いてみた。
写真は男も台所に立つ時代ならでは、こないだ上手にできたリンゴのカラメルバター煮です。2020年4月2日。