小さなタリファの町の高台にはムーア人によって造られた古い要塞があり、その壁に座った人は広場、ポップコーンの売人とアフリカの一部を同時に見ることができる。メルキセデク、サレムの王は、その午後要塞の壁に座りその顔に東風を感じた。羊たちはその脇でそわそわしていた、新しい飼い主への恐れと、あまりの変化への興奮を以って。彼らが欲する全てのものというのはせいぜい食べ物と水だった。
メルキセデクは港から出帆していく小さな船を見つめた。少年を再び見ることは決してないだろう、アブラハムに十分の一税を払わせた後、再び見ることが二度となかったのと同じように。しかしながら、それが彼の仕事だった。
神々は願いを持ってはならない、なぜなら神々は私伝説を持たないからだ。しかし、サレムの王は少年が成功するように心の奥底で願った。
『すぐに私の名前を忘れてしまったら残念だな』、思った。『何回も繰り返しておくべきだった。そうしたら、私のことを話すときに、私がメルキセデク、サレムの王だと言うだろう。』
それから空を見た、少しばかり悔いながら。
『虚栄心のなかの虚栄心だっていうことはわかっています、あなたが言ったように、主よ。しかし老王は時おり自分自身について誇り高くなくてはならないんですよ。』
~続く~
33分。
1ページ弱の短いパートだった。ふふふ楽勝。・・・と、次節は9ページ・・・!?今日のペースでいって4時間半、寛訳11の時のペース(4ページ強で3時間弱)だと6時間くらいかかるやないか・・・おにぎりでも作っておくか。。。
しかし、こんな場面あったのね。日本語版の文庫でも読んだはずだけど、忘れてた。メルキセデクかわいい。もっとかわいい口調で「忘れちゃったらヤダナー」にしようかとも思ったけど、お年寄りには敬意を払うべきだって誰かが言ってたのでやめておいた。
«Qué pena si se olvida enseguida de mi nombre»
寛訳:『すぐに私の名前を忘れてしまったら残念だな』
なおここでse olvidaになっているのは、忘れちゃう、なんと忘れちゃう、という強調の表現になっているわけですね。普通に「忘れたら残念」だったらseは要らないわけです。忘れちゃいやよ、という気持ちが表れています。
ちなみにこのときse le olvida enseguida mi nombreと書くと、同じく忘れちゃうなんだけど、抜け落ちる感じというか、少年自身の罪は薄くなって、しかし「私の名前」(主語になってる)のほうがスルリと抜け落ちてしまって、あれ忘れちゃった、というニュアンスになる、という理解です。しかしse le olvidaではなくse olvida deと言うあたり、メルキセデクの少年に責任を負わせる意地の悪さというか、性根の悪(以下略)
てか実際メルキセデクって名乗ったの一回だけだし、少年の回想でも「老人」ないし「王」って思い出され方だし、少年その前から「もしいつか本を書くことがあれば、人物を続けて登場させて、読み手が名前を覚えるのにこんなに苦労しなくてすむようにしよう」(寛訳9)とか考えてるくらいだから、もう、諦めてください。「サレムの王」のほうは2回言ったし、少年もそれは何度か口に出してるから、そっちはギリギリ覚えてるかもしれないけど。
閑話休題。アブラハムの十分の一税の話。これも聖書の一節のようです。 アブラハムがメルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与える、という場面があるらしいです。
これで初めてわかったのだけど、少年に羊の十分の一を要求したのは、そこから来ているのだね。いやはや、これじゃ小説ひとつ読むにも奥行きの出方が全くこっち次第だな!もっとラクに読ませてくれ!
今日の写真はベトナム北部のハロン湾にて出帆した小さな船の上から。2006年9月。みんな元気かなー。