錬金術つかい(寛訳55)(“El Alquimista”)

「夢についてのある物語を君に話しておきたい」、錬金術師は言った。

少年はその馬を近づけた。

「古代ローマで、ティベリオの時代に、とても善良なある男が住んでいて二人の息子がいた。ひとりは軍人で軍隊に入ると帝国のもっとも辺境の地域ばかりへと送られた。もうひとりの息子は詩人でローマ中をその美しい詩で喜ばせていた。」

≫ある夜、その老人は夢を見た。彼のもとに天使が現れて言うにはその息子のひとりの言葉が世界中で未来のあらゆる世代で知られ復唱されることになるだろうとのことだった。老人はその夜感謝しまた涙しながら目覚めた、なぜなら人生は寛大でありどのような父親でも知れば誇りに思うであろうことを啓示してくれていたのだ。

≫少し経ち、その老人は一台の車の車輪の下敷きになりそうだった男の子を救おうとして死んだ。その人生を通して正しく公正にふるまってきたので、すぐに天へと行ってその夢に現れていた天使に出会った。

≫「君は善い人間だった」、天使は言った。「君はその生涯を愛とともに生きそして尊厳とともに死んだ。今君の持ついかなる願いでも叶えてあげよう。」

≫「人生は私にとっても善いものだった」、老人は応えた。「君が夢に現れたとき、私の全ての努力が認められたと感じた。なぜなら私の息子の詩が来るべき何世紀にもわたって全ての人々の中に残るのだから。私のために頼むようなことは何もないよ、とはいえ、あらゆる父親は子どものころ世話をし若いころ教育をした者の名声を見れば誇りを抱くものだろう。見たいものだ、遠い未来で、私の息子の言葉というのを。」

≫天使は老人の肩を触って両者は遠い未来へと飛ばされた。彼らの周りには巨大な場所が現れ、何百万という人々が不思議な言語を話していた。

≫老人は喜びに泣いた。

≫「私は我が詩人の息子の詩が優れており不滅であるとわかっていた」、天使に言った、泣きながら。「彼の詩のどれをこれらの人々が復唱しているのか私に教えてくれないか。」

≫天使はすると老人に優しく近づき両者はその巨大な場所にあったベンチのひとつに座った。

≫「君の詩人の息子の詩はローマでとても有名になった」、天使は言った。「皆がそれを好きだったし皆がそれを楽しんだ。だがティベリオの治世が終わったとき、彼の詩もまた忘れられてしまった。この言葉は君のもう一人の息子、軍隊に入ったほうのものだよ。」

≫老人は驚いて天使を見た。

≫「君の息子は遠い地へ仕えに行って百人隊長になった。彼もまた公正で善い人間だった。ある午後、彼の召使いのひとりが病になり今にも死のうというところだった。君の息子は、そのとき、病を治すラビの話を聞き、何日も何日もその男を探して歩いた。歩いているあいだにその探している男というのが神の子であることがわかった。彼によって治された他の人々に会い、その教えを学びそしてローマの百人隊長であるにもかかわらずその信仰へと改宗した。そしてついにある朝そのラビのもとへとたどり着いた。

≫病気の召使いがいるのだと彼に言った。するとラビはその家まで行こうと請け負った。しかしその百人隊長は信仰ある男で、ラビの目の奥を見て自分がまさしく神の子そのものの前にいるのだと悟った、その周りの人々が立ち上がった時に。

≫「これが君の息子の言葉だよ」、天使は老人に言った。「その瞬間に彼がラビに言った言葉で決して忘れられることのないものだ。こう言ったんだ、『主よ、私はあなたが私の家に入るのにふさわしい者ではありません、ですが一言だけ言ってくだされば私の召使いは救われます。』

錬金術師はその馬を動かした。

「何をするにしても、地球上のそれぞれの人は世界の物語の中心的な役割をいつでも演じている」、言った。「そして普通はそのことをわかっていない。」

少年は微笑んだ。羊飼いにとって人生がこんなに大きくなりうるとは全く考えたこともなかった。

「さようなら」、錬金術師は言った。

「さようなら」、少年は応えた。

~続く~


1時間21分。

もう前回で錬金術師とは別れたかと思ってましたが、まだいましたね。最後の別れの挨拶してなかったものね。Adiós/さようならって、二度と会わなさそうなニュアンスがあるからか、スペイン語でも日本語でもあまり聞くことの多くない言葉です。なおポルトガル語ではAdeusと言うそうです。こうした再会を期さない意図があってかどうかはわかりませんが、この最後の別れのシーン、とても潔く、なんだかかっこいいなと思いました。

それにしても今節はまた歴史と宗教のお勉強でした。スペイン語よりもそっちのほうが大変だった。メモ載せておきます。

古代ローマのティベリオの時代。スペイン語風にTiberio/ティベリオと訳しましたが、英語風にはTiberius/ティベリウスで、ローマ帝国の第2代皇帝(在位:紀元14年 – 37年)であるティベリウス・ユリウス・カエサルのことのようです。詳しくはWikipediaでチェックだ!重要なのは「イエス・キリストが世に出、刑死したときのローマ皇帝」(Wikipedia)だということですね。

centurión/百人隊長。「古代ローマ軍の基幹戦闘単位であるケントゥリア(百人隊)の指揮官のことである」。なんでもWikipediaだ!

Rabino/ラビ。これは調べなくてもわかるぞ、ユダヤ教の聖職者ですね。でもいちおう辞書の定義も載せておくと、「〔元来ヘブライ語で「我が主・先生」の意〕ユダヤ教の聖職者。律法に精通した霊的指導者の称。」(三省堂 大辞林 第三版)です。なんでもWikipediaに頼っちゃいけない!なお、もともと「我が主」という意味があったのは興味深いですね。

そして最後、百人隊長が言って、世界中の全ての人々が復唱することになった言葉です。

“Señor, yo no soy digno de que entres en mi casa, pero di una sola palabra y mi siervo será salvo.”

寛訳:『主よ、私はあなたが私の家に入るのにふさわしい者ではありません、ですが一言だけ言ってくだされば私の召使いは救われます。』

えっと・・・すみません、復唱したことなかったので全然ピンと来なかったのですが、これはマタイによる福音書の第8章で、ローマの百人隊長がイエスのもとを訪れた場面のことを言っているようです。ローマが支配していたイスラエル、そこのユダヤ教という異教の関係もあって「ローマの百人隊長であるにもかかわらずその信仰へと改宗」という言葉もあるんですね。ご興味ある方は検索していただければいろいろ出てきます、「マタイによる福音書 第8章 百人隊長」で検索!なおこの老人と天使、その夢やもう一人の詩人の息子のことは、検索ですぐには出てこなかったので、別途の創作話なのかもしれません。

ちなみにここで百人隊長がラビ(=イエス)に対して発している言葉がtutearしてる、つまり「君」や「お前」みたいに気軽な相手に対しての言葉遣いなのが気になりました。老人から天使に対してもそう。言語のポルトガル語でも同じようです。これはいったいなぜ・・・?ここらへんにも僕の理解できない言葉上そして宗教上の感覚があるように思われました。寛訳では、いちおう主に対しては「一言だけ言ってくんない?」とは言わないことにしておきました。

写真は2018年4月、パナマでの勤務を早上がりして史上最大の寄り道をして行った、アルゼンチンの第二の都市コルドバからバス・タクシーを乗り継ぎ4時間かかる森の中で、友人夫婦がラビさんのもとでユダヤ式の結婚式を挙げるというので行ったときの写真です(説明長い)。建築家のラビさんだそうで、一帯には自分で設計して建てたという建物がたくさんありました。ピラミッドもあった!おおー。

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