いよいよ締めとして、まとめ3・感想編を書きたいと思います。
これまで60日間連続で向き合ってきた錬金術つかいとの別れが迫り、せつない気持ちがふつふつであります。
最初に抱く感想は、もう、楽しかった。これに尽きます。スペイン語と格闘し、日本語と激闘した日々でした。毎朝ヨガして朝ごはん食べてコーヒー淹れたらパソコンと「El Alquimista」と西和辞書を開く。本の区切りになっている節ごとに、一日一節、その先のページは絶対に読まない、目も通さない。とはいえ日本語の文庫「アルケミスト」を読んだことがあるので話の展開はうっすらと頭に入っていて、「どういうタイミングでガラス商人の店から出るんだっけ?」「まだオアシスに着かないのかなー」「そろそろ少年が風になってしまう・・・ちゃんと訳せるかな」などと思いながら、新しいページに向かっていくのが毎日とても楽しかったです。
こんなにゆっくりひとつの本を読むこと、自分の言葉に置き直していくことっていうのは本当に滅多にないことなので、本の内容も深く楽しめたのが良かったです。そして楽しさのあまりいつの間にか後書きをどんどん気合い入れて書くようになっていって、そうしているうちに西洋史や宗教史がかなり入り込んだ物語だということがわかって。そこらへんの知識や教養があれば内容ももっと理解できたのかもしれないな、とは思います。ですがこればかりは仕方がありません。
スペイン語に向き合っていくうちにその語源であるラテン語を強く意識するようになったのも自分自身に起きた愉快な変化でした。orienteとponiente、この東西はこれまで曖昧な認識でしたが、この先忘れることはないでしょう。またスペイン語やラテン語を考えるうえで、これまで習得してきたフランス語や英語の知識が役に立ってくれることもあり、この広がりを出せることには少しばかりの自負心を抱いたものでした。
途中で大きな動揺があったのと言えばやはり、キャラバンが西に向かって進み始めたときでした。これをきっかけに翻訳というものについて改めて深く考えさせられました。というか、正直この時はややモチベーションを失いかけましたね、なんだよ、原作から離れてるじゃん、って。この発見がもっと早い段階で起きていたら、そして寛訳を見守ってくださっている方たちがいなければ、錬金術つかいは完結を見なかったかもしれません。こうして無事に完結できたこと、嬉しく思います。
それにしても毎回の寛訳の後ろにつけた後書き、これをどのように読んでくださっているのか(そもそもどのくらいの人が読んでくださっているのかも含め)というのは常に不安を抱きながら、それでも話が進むにしたがってどんどん長くなっていってしまった気がします。この時の感覚、がりがり後書きを書いている時の自分の感覚としては、「手を伸ばすと何かくっついてくる」という感じでした。このスペイン語がなんか気になるから、手を伸ばして調べてみる、そしたら意外な意味合いを含んでいた!とか。この人の名前って何だろう、調べてみる、そしたらすごく宗教的な含意があった!とか。手を伸ばすたびに何かがくっついてくるので、それに興奮してめっちゃ書く、そんなことの連続だったように気がします。
だから毎回後書きもとても楽しかったし、記事内には寛訳にかかった時間を記録していましたが、途中からは毎度それに勝るとも劣らない長い時間を後書きのために費やしていたように思います。読んでくださる方には長々と苦痛ということもあったかもしれず、「端的にまとめる」を心掛ける習慣が少なからずある人間の端くれとしては胸が痛むところもありましたが(嘘だと思うでしょう、本当です)、これは個人の趣味でやっていること、嫌な人は読まないだけなのだから大丈夫、と自分に言い聞かせて好き放題に書くことにしていました。なので、本当に重ね重ね、後書きまで読んでくださった方には感謝です。ありがとうございました。
さて、これまでも何度か触れていますが、この寛訳をするそもそものきっかけは昨年末で会社を辞めた時、同僚が文庫「アルケミスト 夢を旅した少年」を贈ってくれたことにあります。温かいその同僚は「私伝説を生きて」とメッセージを添えてくれました。今そのメッセージを改めて読んで噛みしめているところです。
会社を辞め、2020年は中南米の旅行、それから他の地域へと足を延ばして次のステージを歩んでいくつもりでした。未だ知らない場所、環境へ行きたい。知らない領域、分野で仕事をしたい。ナイーブすぎるかもしれませんが、そういう気持ちが強く(もちろんそれだけでもありませんが)、世界の言語の夢を見たわけでもないのに、飛び出した。
ところが、それが、飛び出せなかったんですよね、新型コロナウイルスの影響で。感染者の増加が留まるところを知らないここパナマでは外出制限が非常に厳しく、2020年6月の現時点なんて週に合計6時間の決められた時間しか飛び出せません、自宅を。そして国際線も全面停止しているので旅行どころではなく、さらにもちろん世界中がこの問題に苦しめられていて求人案内もあまり多くありません。錬金術つかいの寛訳も、こうしてできた「おうち時間」の有効活用という側面も色濃くありました。
・・・でも、そうなのかな。これは僕の「心」の声なんですが。コロナのせいで飛び出せていないって、本当かいって。求人、まったく無いわけじゃないでしょ。頼れるツテに片っ端から全部連絡とったわけでもないでしょ。ウェブ面接で落ちた話は万全の準備で臨めたわけ?最近は錬金術つかいばっかりに時間かけてるみたいだけど、それでいいの?てか、そんなんで新しい世界にいって通用すると思ってるの?
心って本当にいろんなことを話すんだなって、今この3分くらい聞いてみて痛感しました。心折れる・・・いや、心に折られる・・・。
たしかに心の声って、いつも話しているけど本当にとても小さな声になっていて、だからそのぶん書き出すとかなりはっきりしてくるものですね。わざわざ公衆の面前にさらす必要はなく、普通は日記とかで十分なわけですが、今回はまあ勢いでこのまま公開してしまいます。いつか消し去るかもしれません。
とにかく、心の言うことには納得です。反論の余地ありません。これからは心を入れ替・・・いや、心の声をしっかり聞いて、ものごとをいい加減にせず、やるべきことをやらんとな。そう改めて思いました。
ラクダ引きの教えを思い出します。食べるときに食べ、歩くときに歩け。眠るときには眠れ。過去でも未来でもなく、現在を生きろ。現在に注意を向けて、現在を良くしろ。一日一日の中に永遠がある。錬金術をつかうわけではなく、特別な何かができるわけでもないが、一日一日を生きる、ラクダ引き。
この物語の主人公はサンチアゴ少年で、タイトルも「O Alquimista」、錬金術をつかう人の話です。少年は心の声を信じ、勇気をもって決断を続け、苦難の連続も辛抱強く乗り越え、ついには世界の魂を理解した。風になるとかは別として、この少年のようにあれ、という作者のメッセージが少なからずあるはずです。だが、同時にラクダ引きという、少年の師となった人も、本作は示した。ここに何か救済というか、ある種の現実解というか、そういったものが含まれているんじゃないかなあと、僕は思うのです。いたって普通のところにいて、日々を実直に生きる、ラクダ引き。特別なものがなくても目指すことのできるひとつの理想形として描かれているのでは、というのは昨日も書いた通りです。
ですが、書きながら思ったんですが、、、そうではないかもしれません。ラクダ引きはもともと、メッカ巡礼も済ませて満足し、死ぬまで変わらない生活をしていて、ナイル川の氾濫によってそれを失い、ラクダ引きになっていました。死ぬまで変わらない生活、それはポップコーンの売人やガラス商人が送っている生き様で、これに対して少年は「何も言わなくて良かった」と、優しくもあるが突き放した思いを抱いています。そして、今のラクダ引きは、たしかに日々を誠実に生き、人生をお祭りとして、幸福に生きている。それは素敵なことだ、だけれどもそれは、ひょっとすると、やはり変わらない生活なのかもしれない。
昨日も書いたけれども、この話に込められた数多くのメッセージのうち、大きなものは勇気、そして勝ち取っていくということ。心の声を聞いて、勇気をもって、挑戦していくこと。そして忘れてはいけないのは、サンチアゴ少年ももともとただの羊飼いだったのでした。スーパーマンではない。
ひょっとしたら、ラクダ引きになろうというのは、僕には時期尚早かもしれません。友人も書いてくれました、「私伝説を生きて」。そうだね。ラクダ引きの教えを取り入れ、現在を生きながら、心の声に向き合って、勇気をもって挑戦していくことを、少なくともまだ今後しばらくはしていきたいなと、思いました。
目指すはサンチアゴ少年かな!誰かスペインの教会に宝埋めといて!あとピラミッドではすぐ「宝さがしてます!」って自己申告するんで殴らないでくださいお願いします。
ちなみに本作で、熱心だけどピントがずれてる勘違い者みたいに扱われたイギリス人さん。率直に言って、彼にシンパシーを感じるところがあって。強く興味を惹かれるもの(錬金術)があり、一生懸命それを理解しようと努めて本もたくさん読んで勉強して、でも結局それを実行できていないどころか砂漠でも本を読んでばかり。これ、少年との対比することで「ピントがずれてるよ」って読んでる人はわかるんだけども、本人にはわからないんだよね。彼は彼なりに精一杯やっている、少なくとも本人はそのつもりなんです。
そして、それがとても重く刺さるというか。僕はイギリス人になっていないか?いや、たぶんちょっとイギリス人なんだ、と思ったんです(※両親は日本人です)。だから読んでいて少しつらかった。
彼が砂漠を見始めて、錬金術師が「適切な道のりにいるよ」と言った、これはだから僕にとっての希望でもあったんです。これから彼がどこまで行ってどうなるのかはわからない、ずっとまったく頓珍漢な男であり続けるかもしれない。心が話しかける子どもの時期は過ぎてしまっている。だけどここに希望を残してくれたことについて、僕は作者に感謝の気持ちを抱いたし、僕ももしかしたらイギリス人かもしれないけど、それならそうで、イギリス人として、砂漠を見ることから始めていこう。そう思ったのでした(※日本人です)。
さて、書きたかったことはだいたい書いたと思うし、逆に書き続けようと思えばいくらでも続けられると思うので、ここらで終わりにしたいと思います。
明日あたり目録を作るつもりですが(どの節がどの話っていうのを整理しておきたい)、長々と文章を書くのはこの錬金術つかいシリーズにおいてはこれが最後でしょう。こうした物語は時を置いて読みなおすとまた違った読みごたえになること間違いなしなので、もしかしたら何年後かに、自分のこの錬金術つかいを再読して、何かを書くことがあるかもしれませんね。それでもまあ、今回はここまでです。
お付き合いいただいた方、読んでくださった方、見守ってくださった方、あらためて本当にありがとうございました。とても楽しかったし、同じように楽しんでくださったことを願います。
これから僕は風になります改めて一日一日の過ごし方を見直して、自分の心と向き合って、勇気をもって次のステップへと挑戦していきたいと思います。まず当面、錬金術つかいに充ててきた時間が空くので本当にいろんなことができるはず、ワクワクしています。
また楽しんでいただけそうなことがあれば、共有していきたいと思いますので、その時にはまた改めてお付き合いいただけますと幸いです。ありがとうございました。
最後の写真です。この期間を通していろんな場所で撮ったいろんな写真を見直してきたけど、どこにいても、空をよく見ていた気がします。これからもいろんな場所で、いろんな写真を撮れたらと思います(コロナ収まらんかい)。この一枚は、どこからも来ておらずどこへも行かない風と、それにのって飛翔する鳥たちです。場所や時期は、まあ、いいでしょう。