錬金術つかいの連載を昨日で終えました。2020年4月18日から6月13日まで、57日間での取り組みとなりました。あらためて、読んでくださった方、見守ってくださった方、ありがとうございました。
ここからたぶん二・三日間ほどで、まとめをしていきたいとおもいます。
「錬金術つかい」について
まずこの「錬金術つかい」について、これ何だったのかというのをもう一度振り返ります。
これはもともとブラジル人作家Paulo Coelhoがポルトガル語で書いた小説「O Alquimista」です。これを翻訳者Monserrat Mira氏がスペイン語版に翻訳してPenguin Random House Grupo Editorial社から出版されたのが「El Alquimista」で、このスペイン語の「El Alquimista」を僕が僕の日本語で訳したものが「錬金術つかい」です。
他方、プロの翻訳家である山川紘矢さん山川亜希子さんが日本語にして角川文庫から出版されたのが「アルケミスト 夢を旅した少年」ですが、あとがきによると「この日本語訳は1993年、著者自身とアメリカ人のアラン・クラークが協力して英訳した『The Archemist』(ハーパーコリンズ社刊)から訳しています」とのこと。
つまりどちらも原作のポルトガル語から直接ではないし、途中に介した言語も異なっています。なので、いま久しぶりに「アルケミスト」を開いてみましたが僕の寛訳とはかなり言葉遣いが違う。そういうことも含めて、この寛訳はあくまでも、Paulo Coelhoさんが書いた「O Alquimista」をMonserrat Miraさんが訳した「El Alquimista」をさらに僕が訳した「錬金術つかい」、というものとして理解いただければと思います。
※なお僕のこのサイトは読んでくださる方が特に多くいるものではないですが、版権とかそういうのに照らすと恐らくこれは良くないことをしている。なので削除しなくてはいけないときが来たら削除するし、罰を受けるときが来たら罰を受けようと思っています。
僕がこの寛訳をやろうと思ったのは、第1節の後書きにも書いた「いつか何かスペイン語の本も寛訳したい」という思いもあったんですが、これのもうひとつ奥にあるのは「スペイン語をもっとちゃんと習得したい」でした。2013年に「Le petit prince」を「王子さま」に寛訳したのもフランス語の勉強だったので、これと同じようにスペイン語の本を訳す機会をずっとぼんやり探していたのです。そうしていた4月、スペイン語の勉強で使っていたテキスト(第31節で写真載せたやつ)が一通り終わって、次の勉強に何をしようかなと考えたときに、ちょうど1月に友人が贈ってくれて読んだ「アルケミスト」が頭に浮かび、ああこれだ!となったのです。
楽しかった。外国語の本の日本語版を読んで、自分の言葉で翻訳するというのは、これからも続けていきたい言語の勉強方法になりました。勉強というよりも、刷り込み?触れ続けて、自分の身体に慣らしていくというか、そういう効果があるように思っています。それに好きな本だから楽しくできるし、訳をどこかに載せていくと見てくださる人がいて張り合いも出て続けられる。仕組みもうまくいったなと思います。
ただ本当のところを言うと、この方法は刷り込み効果こそあれど、かける時間に対しての学習効率という意味では、そんなに高くないかもですね。本来ならば対象言語で正しくメッセージを読み取ることができれば事足りて、それ以上には深掘りも何もないはずのところを、そのメッセージや含まれるニュアンスを異言語である日本語に変換しないといけない。実は言語としては日本語のほうが深く見つめたような気がします。ニュアンスや文脈がハマる表現を求めて類義語の検索とかたくさんしました。
しかしそれも仕方ないというか。誰にも迷惑をかけずに、誰に指導してもらわなくても自分のペースで進められるのは、この外国語→母国語の方向でしょうね。母国語→外国語のほうが学習領域は無限に広がって成長も著しいはずだけど、これは一定レベル以上に到達していない場合には添削してもらわないと片手落ちだし正しさが担保できない。なのでまあ、レベルに合わせてということだと思うけど、外国語→母国語なら比較的どの段階からでもマイペースに取り組めるのかな、ということです。見返すと僕がLe Petit Princeの寛訳を始めたのはフランス到着10日後だったようです。それでよくやったな、と我ながら思いますが、題材の話を一度でも母国語で読んだことがあって、その話が好きで、対象言語の基礎が少しでもあって、あとは辞書にかじりつくガッツがあれば、実はいろんなことが可能なのかもしれません。
翻訳について
さて今回、ポルトガル語が原作の話のスペイン語訳から寛訳を作ったというのは前述のとおりで、ここには第1節でも書いた通り、「ポルトガル語とスペイン語はとても似ているので、スペイン語版の純度はかなり高いはず」という想定が大きく作用しています。本当なら原作を読んで作者のひとつひとつの言葉遣いを味わいたい、それが外国語を勉強したからこそできる醍醐味のひとつというもので、今回はそれに少し目をつぶって寛訳を始めたということになります。
そんななかでひとつ衝撃的なことが発覚したのは、第28節の冒頭でのことでした。少年の参加したキャラバンがモロッコのタンジェから西へ向かった場面、僕はこれ、エジプトに向かうなら東に向かわなくちゃいけないはずなので、変だな、何かの間違いじゃなかろうかと。それで、もともと僕は本屋で「El Alquimista」を買って寛訳の対象としていたんですが、その前にkindleでも電子書籍で「El Alquimista」を買っていたので、これを念のために見て編集ミスじゃないことを確かめよう、と思ったんです。するとわかったことは、本屋で買った「El Alquimista」とkindleで買った「El Alquimista」では、言葉遣いが大幅に違っていたということでした。もちろん両方ともスペイン語。詳しいこと、そしてその時の僕の錯乱の様などは第28節をご笑覧ください。
衝撃は続きます。翌日、第29節に取り組むなかで、どうしても前日のモヤモヤが消えず、ついに抑えきれず原文つまりポルトガル語の「O Alquimista」を買ってしまったんです。そして前日ひっかかった部分を見てみた。そうすると、遣われている単語が結構違っているということが分かったんです。同じ文の比較を載せます。
A caravana começou a seguir em direção ao poente.
O Alquimista. Paulo Coelho. Editora Paralela. Kindle Edition. (原文)
La caravan empezó a marchar en dirección al poniente.
El Alquimista. Autor: Paulo Coelho. Translator: Monserrat Mira. Editor: Penguin Random House Grupo Editorial (寛訳の対象)
La caravana se dirigía hacia poniente.
El Alquimista. Autor: Paul Coelho. Translator: ?? Editor: Sant Jordi Asociados. Kindle Edition.
ポルトガル語、スペイン語どちらか少しでもかじったことがあれば何となくでもわかってもらえると思うんですが、けっこう、違うんです、単語の選択が。三者三様という感じ。ポルトガル語をなるべくそのままスペイン語に置き換えようとするならば “La caravan comenzó a seguir en dirección al poniente.” になりそうなものですが、どちらもそうはなっていない。特にポルトガル語の動詞seguirはスペイン語でも同じくseguirという動詞に置き換えられるはずで、この動詞は「神が示したしるしをたどる」など本作中で重要な意味を持つものであるにもかかわらず、marcharやdirigirseといった動詞に置き換えられている。このあたりの僕の憤怒は第29節をご(失)笑覧ください。
まあそんなわけで、わかったことは、事前に持ち合わせていた想定「ポルトガル語とスペイン語はとても似ているので、スペイン語版の純度はかなり高いはず」、これには小さくないクエスチョンがつくということです。ここだけでなく、これ以降も似たような場面がでてきました。すなわち訳者によって言葉の選択が違っている、そしてその複数の訳者のいずれもが、原作者の言葉遣い、息遣いを最大限に保存し再現している・できているとは、必ずしも言えなさそうだ、と。いうことです。
ここから言えることは、まあ当然と言えば当然ですが、作者の息遣いを感じたければ、やはりその原文を見なくてはならないし、逆にひとたびその手を離れて他の言語になった状態で読むときには、少なからずの改編というか違った部分が出てくる。ポルトガル語とスペイン語というすぐお隣の言語でもそういった具合なのだから、もっと離れた言語であれば推して知るべしといったところです。・・・まあ、ね、この本作でも言ってる通り、余計な部分を削っていけば最後に残るのはひとつ、本作全体のメッセージしかないわけで、言葉遣いだの息遣いだのにどのくらいこだわるかというのはあるわけですが。ひとつ、強く印象に残ったことでした。
※ちなみにこの言語をまたぐことでの改編というのは小説に限らずもちろん非常に多くというかあらゆる場面で起きているはずなわけで、普段からそのことを頭に入れておかなくてはならないし、これに関連して自動・高速化されていく翻訳ソフトとどう向き合うかといったあたりも第28節で少し書いています。夫、主人、旦那をどう英語にするか(全部husband?)、husbandをどう日本語にするか(夫?)、ではyour husbandはどうか(あなたの夫?)、という話でもあります。
ついでに上述の同じ箇所、山川さんはどうしたのかなと見てみると、また違った次元の何かが起きていました。
隊商は東に向かって進んだ。
アルケミスト 夢を旅した少年.パウロ・コエーリョ.訳:山川紘矢・山川亜希子.角川文庫
キャラバンは西の方向へと進み始めた。
錬金術つかい.パウロ・コエーリョ.寛訳第28節
えっと・・・方向違ってますね。いや、そう、モロッコからエジプトに向かうなら東に向かわなくちゃいけないんです、そうなんですけど。え、何があってるの結局??
前述のとおり山川さんの「アルケミスト」は「著者自身とアメリカ人のアラン・クラークが協力して英訳した『The Archemist』から訳」されたもの。ということは、ひょっとすると英語にするときに方向転換したのか、文字通り!?
こうなってくると思わず「The Archemist」すら買ってみたいという衝動に駆られますが、それはさすがに泥沼の様相を呈してくるし、そこで何かがわかったところで僕の思いがどこかに綺麗に着地するようにも思えないので、やめておきます。
「El Alquimista」から「錬金術つかい」への変換
翻訳というものの考察に続き、ここでは僕自身による翻訳・寛訳の作業を通して考えたことを記したいと思います。翻訳についての考察と重なる部分もありますが。
端的に言って、翻訳って、本当に難しいというか、改編の連続、手垢のかたまりだなと、思います。平易の文章から、「でした」なのか「であった」なのか、「だった」なのか。男の一人称は「僕」「私」「俺」、複数だと「僕たち」「僕ら」「私たち」「私ら」「俺たち」「俺ら」。読み物だと「僕たち」と「僕達」でも読みやすさやひょっとしたら与える印象も違うかもしれない。これらは日本語でゼロから作文をするときにも言えることだけれども。
さらに外国語から日本語にするとき固有の問題としては、複数の意味をもつ単語がくり返されているけれどもニュアンスが少しずつ違うときのこと。例えばvidaというスペイン語は英語で言うlifeで、何度も本作中に登場していますが、日本語では人生・生活・命などといった意味の広がりがあります。前述のseguirと同様、作品のキーワードとして繰り返されている単語なのに、同じ言葉遣いを保存できない場面が何度もあり、悔しい思いをしました。これが改編なんだよなあと思います。なお第52節でnaturalezaという語について似たようなことがあり、この時は意地で「自然」に統一しましたが、結果として日本語の読みやすさは犠牲にしてしまったかなと思います。そういうジレンマもあります。
他にも、文法が違うことでの翻訳の限界があります。これについては最終節の終盤も終盤というところで、東風がその限界をしっかり教えてくれました。
Por el contrario, (el levante) traía un perfume que él conocía bien, y el sonido de un beso que fue llegando despacio, despacio, hasta ponerse en sus labios.
寛訳:反対に、(東風が)運んできたのは彼がよく知った香り、そして口づけの音がゆっくりと、ゆっくりとやってきて、ついには彼の唇についた。
口づけの音がゆらりゆらりとやってきて、少年の唇につくところが、とても美しい表現です。ただここで、スペイン語の表現を順にみていくと、「東風は運んできていた、香りと、口づけの音を、この口づけの音はゆっくりやってきて唇についた」となっています。これがひとつの流れるような文で美しく、また文法的にも成立するかたちで表現されている。それが寛訳では、口づけの音が東風で運ばれてきたことが曖昧にされていて、どちらかというと「東風が運んできたのは香りである」「口づけが彼の唇についた」の二つの分かれた文に見えてしまう。つまり寛訳では美しさの保存を優先するために、文法そして原形の保存がやや崩壊してしまいました。ああ、限界があるなあ、と最後まで思わされる場面でした。
その他、悩まされたのは大文字で始まっている単語ですね。というかこれはお手上げでした。第11節あたりから継続して出ていた「世界の魂」や「私伝説」なんかはずっとAlma del MundoやLeyenda Personalというふうに大文字で強調されていました。大文字と小文字っていう表現の強弱のつけ方は、日本語にはない手段だよなあと思いました。
他方、スペイン語と日本語との相性の良さを感じる部分もありました。それは第50節でも取り上げましたが、両言語ともに、必ずしも主語を必要としないということです。主語が自明であるかあるいは主語を強調しない・する必要がない場合には、主語が省略される。第27節の冒頭で、自らがキャラバンの隊長であることを強調する必要があった隊長は、「私がキャラバンの隊長です」と言っています。他方、第40節の冒頭では、少年が「砂漠のしるしを持ってきました」と言っていて、主語は省略されています。これ、英語にすると “I bring signs of the desert” となって、これを和訳しようとすると「私は砂漠のしるしを持ってきました」と書くことになるでしょう(山川さんの訳は「私は砂漠から前兆を持ってきました」だった)。このあたり、強調するところは強調する、しないところはしないというメリハリが言語間で一致させられるというのは便利だなあ、と思いました。ちなみに原語であるポルトガル語も主語の省略がある言語です。
僕なりに編み出したルールみたいのもありました。「時」と「とき」、「間」と「あいだ」についてです。気づかれていた方もいるかもしれませんが、かなり平仮名を多用しました。これは「その時彼は」よりも「そのとき彼は」の方が読みやすいよね、という単純な発想から始めたんですが、やっているうちに自分として馴染んできて。なんとなくですが、「時」と「間」は区切られ特定された時間について話すとき、例えば「時を同じくして」(第20節)とか「少し間を置いた」(第8節)にはすごくフィットするんです。だけどスペイン語のcuandoやdurante、英語でのwhenやduringとか、時間の関係性の表現が主な役割になっているときには、「そのとき」とか「そのあいだ」といった平仮名のほうが、直後に漢字がくることが多いのもあってフィットするかな、と思って。全部で徹底できてはいないと思うけど、勝手にそういうルールでやってみていました。これは翻訳とか関係ない話ですけどね。読んでくださった方が、読みにくくなかったなら良いなあと思います。
この物語に引きつけて限定した話としては、サンチアゴ少年のことをmuchacho/少年と呼んでみたりchico/男の子と呼んでみたり、というのが興味深かったですね。読んでいて気づかれた方もいたかわかりませんが、決して僕が書き分けていたわけではなく、El Alquimistaに沿って訳していました。基本的にはmuchacho/少年なのだけど、何か動揺しているときや質問をしているときにはchico/男の子と呼ばれることが多かったですね。これはなるほどねーと思いながら見ていました。
あと、この話のキーワードとして「言語」がありましたが(「世界の言語」とか「宇宙の言語」とか)、実はスペイン語ではlenguaとlenguajeという二語が遣われていました。lenguaが出てきたかと思えばlenguajeが出てきたりと、最後までつかみどころがなかった。lenguaについては英語のtongueと同じく第一義が「舌」で、そこから「言語」になっているのはわかるのだけど・・・。しかも、本作中では一度も出てこなかったけどスペイン語にはidioma/言語という単語もあり、日常会話の中ではidioma japonés/日本語とかってよく言われるので、この関連もわかんないな、と。
そう思っていたら6月2日、僕がたまに読んでいるEstandarteというスペイン語についてのブログ(小説の紹介や間違えやすい表現の解説など面白い)に、¿Son lengua y lenguaje sinónimos?/lenguaとlenguajeは同義語?という記事が出て、コレヤ!しるしや!と飛びつきました。その冒頭にはこう記されています。
lenguaとlenguageの違いは明確ではない、しかしながら一般に全てのlenguaはlenguajeだとみなされるが、全てのlenguajeがlenguaとみなされるわけではない。ひとつのlenguaはひとつのidiomaと同等であり、対してひとつのlenguageは意思疎通ないし知識の表現のひとつのシステムである、lenguage matemático/数理言語のように。
¿Son lengua y lenguaje sinónimos? Estandarte. 寛訳.
続けていろいろ書かれているのですが少々ややこしい。ただ興味深い記述を見つけました。lenguaは文字を持つ集団において口頭の意思疎通で用いられる言語であるのに対し、lengujeはそれよりも広く、言葉・単語に加えて、状況や感情を伝達するために用いる一連のseñales/しるしも含まれる、たとえばlenguaje de las flores/花言葉、lenguaje corporal/ボディランゲージなど。とのことです。
しるし!そうだったのか、lenguajeはしるしも含んでいたのかぁ!!と興奮して、じゃあひょっとして、と調べてみました。上述のとおり、本作中に「言語」という語は何度も出てきていますが、僕が「世界の言語」と訳したところは全て “Lenguaje del Mundo” と書かれていました!!つまりやはりlenguajeとlenguaはきっと少なからぬ意味を持って使い分けられていたんだな、muchachoとchicoのように。今この瞬間まで気づかなかったのは痛恨の極みですが、ひとつ新しいことを知ることができて良かったと思うことにします。
今日は翻訳編ということで、翻訳するに至ったところ、翻訳そのものに見たこと、そして寛訳していてのことがらについて書きました。次は内容編として、小難しかった内容の読み解きへの挑戦、話のつくりから思ったこと、そして感想というあたりをまとめて締めたいと思います。
せっかくここまで写真を載せてきて、それを楽しみにしてくれていた人もいたようなので、今日も載せます。せっかくなのでこれまで紹介できなかった町をと、ポーランド第二の都市クラコフ。観光地から少し離れる方向へ歩いていたら、いつからか時が止まっているような不思議な景色が目の前に広がっていたので、慌てて撮った一枚です。この旅は2014年2月、アウシュビッツを見学しようと計画し、その足でいわば「ついで」でポーランドにも行ったのでしたが(その時に第12節の写真のチェコにも行った)、一声にヨーロッパと言っても本当にいろいろあるんだよ、過去も、今も、そしてきっとこれからも、というのを教えてくれた旅行でした。ちょうどこの時にはウクライナの騒乱が激化してウクライナ南部クリミアにロシア軍が武力侵攻するなど、リアルタイムで戦争の気配を感じていたのも思い出しました(こういう映像見た)。