昨日に引き続き、今日はまとめ2・内容編を書いていきます。
内容の読み解き
この物語の中には非常にたくさんのことが盛り込まれていて、読み解きの試みは始める前から正直お手上げなのですが、主なところ、僕なりに気になったところをいくつか取り上げていきます。
世界の魂、ただひとつのこと、世界の言語、しるし、私伝説
いきなり大物なんですが・・・これを避けては通れまいということで。相互に深く関わっているので一点突破を試みます。
「ただひとつのこと」っていうのはそんなに頻繁には出てこなかったし印象もそんなに強くなかったかもしれません。ですが老王メルキセデクが少年を送り出す直前にも「全てはただひとつのことだということを忘れずに」と強調していて(第14節)、なんだろう?と思っていたんです。
「世界の魂」「世界の言語」といったあたりは、これらは錬金術師を探してキャラバンに参加したイギリス人が登場したころから多く出てくるようになった言葉です。イギリス人はなかなか勉強熱心で、いろんなことを教えてくれました。彼とそして彼の本によるとこう説明されます。
「錬金術ではそれを世界の魂と名付けている。(…)」
寛訳第29節
(…)地表のすべてのものもまた魂を持っている、鉱山、植物、動物あるいはたとえただの考えであっても、と。
「地表にあるすべては常に変化する、なぜなら大地は生きていて魂を持っているからだ。僕たちはこの魂の一部でありながらそれがいつも僕たちのためになるよう働いていることを滅多にわかっていない。(…)」
より強く少年の興味を引いた本は有名な錬金術師たちの物語を記していた。(…)もし金属が火の中に何年も何年もずっと保たれると、しまいにはその個々の特性から解き放たれてただ世界の魂だけが残るのだと信じていた。この唯一の物は錬金術師たちが地表上のいかなることでも理解するのを可能にした、なぜならそれは物同士が通じ合うのに通す言語だったからである。
寛訳第30節
第30節の後書きでは特に「世界の魂」についての読解を試みています。そんなに間違えてないと思うのでご参照ください。
さらに忘れてはいけない第52節、風になる少年の節で、世界の魂について決定的な言葉が出てきます。
僕は僕のなかに風、砂漠、海、星そして宇宙に創られた全てのものを持っている。僕たちは同じ手で創られ同じ魂を持っている。
寛訳第52節
(…)
そして砂漠も、風も、太陽も人間もなぜ創られたのか知らないことをわかっていた。しかしその手はこれら全てのためのある目的を持っていてその手だけが奇跡を働くこと、海を砂漠にそして人間を風にすることができた。(…)
そして少年は世界の魂に没入しそして世界の魂とは神の魂の一部であることがわかり、そして神の魂とは彼自身の魂であることがわかった。
他にもたくさんのヒントが散りばめられているなかで、そろそろ僕なりのまとめを書くならばこうなります。
- 「世界の魂」とは創造主である神の魂(の一部?これはわからん)であり、そして神の魂はその全ての創造物の魂でもある。鉛も貝殻も砂漠の砂の一粒もそして少年もその「世界の魂」を持っている。(第52節、第29節)
- 「ただひとつのこと」はほぼイコール「世界の魂」。というか、「世界の魂」というただひとつのもので、あらゆる創造物がひとつに繋がっているということ。(第52節、第29節)
- 「世界の言語」は、「世界の魂」がその意思を表現し伝達するための仕組みのこと。「その手」つまり神はあらゆるもの、砂漠、風、太陽、人間をある意図をもって創造した(第52節)。その意図を伝えるための仕組み、それが「世界の言語」。(せっかくなので昨日の勉強の「言語」の部分も参照)
- 「しるし」はこの「世界の言語」の地球上での表出。人々に伝えるために神が創った「目に見えるものたち」(第46節)。(同上、昨日の勉強の「言語」の部分も参照)
- 「私伝説」は「世界の言語」およびその一部である「しるし」を通して神が伝えようとしている意図を実現すること。「神はこの世にそれぞれの人がたどるべき道のりを記した。神が君のために記したものを読み取らなくてはいけないだけだよ。」(第14節)
けっこう整理できたような気がするんですが、いかがでしょうか。他にも本当にたくさんのヒントが散りばめられているので、もっといい読み解きができたかもしれませんが、大まかな意味は捉えているかなと思っています。
錬金術、錬金術師、愛
次に考えたいのは錬金術と錬金術師、そして愛の意味です。第46節で少年は『きっとこの錬金術師は一度も愛したことがないんだ』なんて失礼な考えを抱いていますが、果たしてどうか、見てみます。
やはり答えに近いのは少年が風や太陽と話をしている第52節になりそうです。
太陽は少年に「鉄は銅と同じである必要がないし、銅が金と同じである必要もない。それぞれがこの唯一のものにおける役割を果たす、そうすれば全てが平和なひとつの調和になる」と、それぞれがそれぞれのままであることで「ひとつの調和」になり「世界の魂」「ただひとつのこと」の意思が満たされると言います。さらには創造が五日目で止まっていれば、すなわち人間が創造されていなければこの調和が実現されていたという考えすら仄めかします。
それに対して少年は「君は愛を知らない」と返し、このように続けます。
「もし創造の六日目がなかったならば、人間は存在しておらず、銅はずっと銅、鉛はずっと鉛だった。それぞれがその私伝説を持っている、それは真実さ、でもいつかこの私伝説は果たされる。そうするとさらに良い何かになり、そして新しい私伝説を抱く必要がある、世界の魂が本当にただひとつのものになるまでね。」
寛訳第52節
(…)
「そのために錬金術があるんだ(…)それぞれの人がその宝を探してそれを見つけるように、そしてその後にそれまでの人生でのあり方よりも良くなりたいと望むように。鉛は世界がそれ以上鉛を必要としなくなるまでその役割を果たし、それから金にならなくてはならないんだ。」
≫錬金術師というのはこれをするんだ。僕たちが今あるよりも良くなろうと探し求めるとき、僕たちの周りの全ても同じくより良いものになると示すんだ。
(…)
「愛は世界の魂を変えてより良くする力なんだ。(…)それは全ての創造物の反射であり、その戦争や情熱を抱いていると知ったんだ。世界の魂を育むのは僕たちであって僕たちが生きる大地は良くも悪くもなる、僕たちが良くあるか悪くあるかによってね。そこに愛の力が入ってくるんだ、なぜなら僕たちは愛するとき、いつも今あるよりも良くなることを願うから。
引用が長くなりましたが、この中にだいたい入ってるのかなと。すなわち少年曰く、太陽が言うところの「それぞれがそれぞれのままであることでひとつの調和になる」ことは世界の魂の真の意思ではない。世界の魂は全てに私伝説を持たせ、それが実現されるようにしるしを与えた、だからそれは実現される必要があるし、実現したらさらにより良いものになって新たな私伝説を求める必要がある。こうして全てのものが進化を続けた先にあるのが、全てが「ただひとつのもの」になるということだと。
それには愛がいる。世界の魂はあらゆるものの写しなので、良くも悪くもなる。そこで愛の力が入ってくる、「なぜなら僕たちは愛するとき、いつも今あるよりも良くなることを願うから。」
錬金術とは世界の言語を理解し、しるしを読み解くことで、それぞれの私伝説の実現を助け、それがより良くなるよう導くこと。また、何かがより良くなるときには周りのものもより良くなるという法則がある(これについては第48節でも記されているけど、あまり明らかにされていないと思う)。これを理解して実践するのが、錬金術師である。
ついでに言うと、鉛が金になること。これは錬金術師が持つ賢者の石によってなされるわけですが(レシピは第54節を見てね☆)、この賢者の石はそもそも錬金術師が「研究室に閉じこもっていて、金のように進化しようとして」、「ひとつのものが進化するとき、その周りにある全ても同じく進化する」という法則の結果として手に入れたもの(第48節)。すなわち賢者の石は錬金術師の進化によって引き起こされた進化の結晶のようなもので、これを加えることで鉛も進化して金になると、そういうわけです。
ただし賢者の石は結晶ではあるかもしれないけど「進化している」わけではないので、鉛を巻き込めるものかな・・・。あ、でもそうか!第54節でわざわざ調理場に入って鉄の丸い容器にいれて鉛と一緒に加熱したのは、賢者の石をさらに進化させて、そこに鉛を巻き込んだっていうことか!加熱することで金属が純化・進化するのは第30節でイギリス人に借りた読んだ本にも書いてあったし。なるなる。納得です。
※鉄の容器がなぜ巻き込まれなかったのか問題は、ここでは考えないこととします。
・・・と、興奮してめっちゃ書いてしまいましたが、主題についてはおよそ記したつもりです。伝わるでしょうか。。。
ちなみにサレムの老王メルキセデクは第11節の段階ですでに重要なことを言っていました。「世界の魂は人々の幸福によって育まれるのだよ。ないしは不幸、妬み、嫉妬によって。」さすが老王っす。かたやイギリス人は第29節で「錬金術ではそれを世界の魂と名付けている。(…)これはいつも前向きな力なんだ。」なんて言ってますけど。違うんですよ、前向きとは限らないんです、そこには愛が必要なんですよ。これだからイギリス人はわかってないなぁ(※個人の感想です)。
あ、あとここまでを踏まえると、第52節の、「そう、これが愛なんだ。(…)これが鉛を金にさせるもの、そして金を再び地下に隠れさせるものなんだ」、これもどうにか読める気がします。なんで愛が金を隠しちゃうの!?って思ってたんですけど、これは新たな私伝説を抱かせているということなんですね。そうしないと、さらに良くなることができないから。
創造の六日目
ここは全く詳しくない宗教的・思想的な要素が入ってくる部分ですが、本作の中に限定して少し読みますと。
再び第52節、創造が五日目で終わっていたら良かったという太陽に対して、六日目がなければ人間がいなくて、銅はずっと銅、鉛はずっと鉛で、進化がなかったという少年。つまり人間がいたから進化があると。そして進化のため、より良くなるために必要なものは愛とされています。この節、少年は砂漠、風、太陽をひとつひとつ引っ張り出しては「愛を知らないね」とバッサバッサと切り捨てていきます。
つまり作者はここに人間の存在意義を見出しているような気がします。同節で「人間もなぜ創られたのか知らない」と少年に言わしめていますが、実は一定の存在意義を明確に示している。それは愛。愛が世界をよくするために必要なものであり、それを知っているのは砂漠でも風でも太陽でもなく人間なのだ。そういうメッセージが含まれているのかな、と思いました。
それと同時に、本作ではファティマという運命の相手の登場によって揺れ動く少年を描いたうえで、錬金術師に「愛は人がその私伝説をたどることを決して妨げない」「これが起きる時というのはそれが真の愛、世界の言語が話すそれではなかったからだ」と力強く断言させています(第44節)。
すなわち愛することが人間のある種の役割だが、それはただ愛する、一緒にいるということではない。自分の私伝説をたどり、それを実現して、さらにより良くなろうとすること、それによって世界を良くしていくこと、これこそが真の愛なのだという。そういうメッセージなのではないかと思います。
こう見てみると錬金術師は「一度も愛したことがない」どころか、別名「愛の伝道師」と呼んでも過言でないのかもしれません。
「勝ち取る」の含意、争い、それぞれの私伝説
ここでは少し目先を変えて、僕が個人的にとても気になった表現について掘り下げたいと思います。これまで何度も、そして最終の第57節の後書きでも取り上げたことなんですが、conquistar, conspirarという単語が要所で遣われてきたことについてです。
まず、この物語の最も有名な台詞のひとつが、第11節から何度も登場する「君が何かを望むときには、全宇宙が君の願いを実現するために取り計らうんだよ」と寛訳したものだと思います。このスペイン語版と英語版は第11節に記載しました。ちなみに山川さんの「アルケミスト」では「お前が何かを望むときには、宇宙全体が協力して、それを実現するために助けてくれるのだよ」となっています。せっかくなのでポルトガル語の原文も見ておきましょう。
Quando você quer alguma coisa, todo o Universo conspira para que você realize seu desejo.
Paulo Coelho. O Alquimista . Editora Paralela. Kindle Edition.
ここで注目したのは、conspirar/陰謀を企てる・共謀する、という動詞が用いられていることです。このフレーズはその後何度も登場するたびに少しずつ形を変えましたが(第43節では「何かを望むときには、全宇宙がその人がその夢を実現できるよう取り計らう」とか)常にconspirarという動詞は変わらず用いられていました。寛訳では「取り計らう」と訳しました。
そしてもうひとつが、conquistar/征服する・勝ち取る、という動詞とその名詞形。第3節の「ムーア人征服者」に始まり、第47節の「獲得者の試験」、そして最後第57節の「戦利品」まで。第24節、第28節でも出てきて、この物語の隠れキーワードとして個人的には認定したい。
それに加え、第57節の後書きでも触れたとおり、Santiago Matamoros/サンチアゴ・マタモロ(=ムーア人を殺すサンチアゴ)の肖像が繰り返し登場していて、主人公の少年の名前がサンチアゴであるということ。
僕自身はスペイン語もまだまだ勉強中だし、欧州の歴史や宗教史なども理解はほぼ皆無なので、それぞれの語の持つ意味を正しく認識できていない可能性もあります。ただ、僕が受けた印象として、ここで用いられたこれらの語群はこの物語全体が持つ雰囲気に対してかなり強烈で、もはや物騒な印象だということです。
こういうとき、文学的には作家パウロ・コエーリョの生い立ちや執筆時期の社会背景なども絡めて、これらの語句の選択にこめられた意味を探ったりするものなのかもしれませんが、僕はそこまではしません。しません。ただ作中のメッセージをもとに想像してみます。
ひとつ思い当たるものとしては、私伝説を実現するのが非常に困難であり強い意志、勇気を必要とするものだということです。少し変な感じですが自分で書いた寛訳第44節の後書きを再掲します。
サレムの老王メルキセデクが船で海峡を渡る少年に対して「成功するように心の奥底で願った」(第15節)ことからも、またこの錬金術師も初めて出会った場面で「君の勇気を試さなくてはならなかった」(第41節)ことからも、成功する方向の未来、あるべきようにある未来は、記されていない、あるいは読み取ることができないのかもしれない。その未来がどうなるかは、「何をおいても、私伝説の最後までたどり着くということを忘れずに」いられるかどうか(第14節)、「決して屈しない」かどうか(第41節)次第である、と。
寛訳第44節の後書き
この困難さが、実現への道のりに「勝ち取る」のニュアンスを込めた理由のひとつかもしれない。実は「勇気」という言葉も、これまた要所でちょこちょこ登場しています。旅をするために「司祭になりたくない」と父に言うために奮い立たせた勇気(第5節)、錬金術師が最初に行った勇気の試験(第41節)、そして少年が自らの心に話した「羊飼いにとって不可能なことをやってみる勇気」(第47節)や、心が少年に話した「羊たちから離れる勇気、私伝説を生きる勇気」(第48節)など。この「勇気」がポジティブなキーワードのひとつだとすれば、その程度の大きさを表す仕掛けのひとつとして、「勝ち取る」の要素を入れたと考えることもできそうに思います。
あともっと直接的なところでいうと、作者の戦争・争いに対する達観した見方というか、それを自然なことだとする観念のようなものが表現されていると考えるのは、ちょっとやりすぎかなあ。本筋とはかなり離れる感じがするものね。でも気になった箇所は二つくらいあって。
ひとつは第33節、ラクダ引きが「戦争の脅威に大した感情を抱いていない」様子で言った言葉、「もし君がいつでも現在に留まることができるなら、幸福な男になるよ。(…)戦士たちが戦うのはそれが人類の一部だからだと感じとるだろう。」
もうひとつは第37節、キャラバンの隊長がオアシスにて人々を集めて。
「戦いは長いあいだ、ひょっとしたら何年ものあいだ続くでしょう。双方に強く勇敢な戦士たちがいて、双方の軍隊に戦いの名誉がある。良きものたちと悪しきものたちの戦争ではないのです。これは同じ力を持って戦う勢力間の戦争で、こうした種類の戦闘が始まるときには他のものよりも長く続くのです、なぜならアラーがふたつともの側にいるからです。」
寛訳第37節
この物語において、「士族間の戦争」という仕掛けが必要だったのか?そしてラクダ引きやキャラバン隊長がこれらの台詞を述べる必要があったのか?サンチアゴ少年がその私伝説を達成していく様子を描くなかで様々な仕掛けは必要だったけど、それが戦争である必要があったのかという点はよくわからない。そう考えると、「戦士たちが戦うのはそれが人類の一部だから」という作者の観念が、もしかしたら記されている、のかなあ?
ただ考えをもう少しリセットすると、それぞれに正義がある士族間の戦争、双方にアラーがついている戦争も、全てはもともと同じ手で記されているはずなんですよね。そもそもどうしてそれで戦争が起きるのだろう?
キャラバン隊長が必ずしも正しいことを言っているとは限らない、と考え直す必要があるかもしれません。少年がハイタカの飛翔を読み(第38節)、侵略した軍隊を全滅させたことは、少なくともその全滅した部隊にアラーはついていなかったことを意味しそうです。
第44節、ファティマと共にいるためにオアシスに残る場合の少年の未来について錬金術師は「四年目にしるしは君を見放すだろう、なぜなら君がそれを聞きたくなかったからだ」と言い捨てます。第47節、少年の心は私伝説をたどらなかった人々との話について『それで僕ら、心は、ますますより小声で話すようになり、(…)そして僕らの言葉が聞かれないことを願っている』と少年に語り掛けます。
これらが示唆することは、心に向き合わない人は私伝説を追うことをやめ、それがために世界の言語のしるしからも見放されてしまうということ。それどころか『世界のことを何か脅迫的なものだとみなし、まさしくそれがために、世界は何か脅迫的なものへと変わる』(第47節)ということ。これはまさしく「世界の魂が僕たち次第で良くも悪くもなる」ということの悪いほうの現れ。
ここで、愛の裏側として繋がるのかな。すなわち六日目に人類が創造されて、それが私伝説を実現して真の愛を実行すれば世界はより良いすばらしいものになる。しかし現実には私伝説を放り出してしまって、「結局、金だけを追求していた」(第48節)。「そして、進化の象徴である代わりに、金は戦争のしるしになってしまった」(第48節)。そうやって、同じ世界の魂から始まったはずが、愛の世界と戦争の世界で全く違ったものになってしまったこと、その対比をしているのかなという気がしました。
・・・えっと、でもこの最後の結論だと、conquistarやconspirarという動詞、サンチアゴという名前といったやや物騒な選択がなされたことの疑問への回答には別になってませんね。。。えー、、これはお手上げで!なんかすんませんでした!
少年の夢
ところで少年が見た夢、覚えてますか?いつのまにかエジプトのピラミッドのことばっかり考えていて、肝心の夢の中身を忘れちゃったよ。そんな人はジプシーの家まで行ってチェックだ!(第8節)
そう、夢に「男の子」が出てくるんです。これ誰?って。でも、これはまあなんとなく想像つきます。少年の心ですねきっと。それも世界の魂の一部としての。そうでないと老女はそれを読むことができないから。世界の魂がその意思を示すために世界の言語であるしるし、この場合は夢、を示した。(まあ実のところ、この「男の子」が少年の心かどうかは曖昧な気もします。というのも世界の魂の一部になっていて、動物たちとも「ただひとつのもの」として打ち解けているようだから。こういう状態の時、少年の心を「少年の心(魂)」と呼んでいいのか、それとも「世界の魂」と呼ぶべきなのかは、わかりません。)
というのはまあいいとして、僕はこの少年の夢に関して、ふたつ言いたいことがあるんです。ひとつは、なぜ「宝」だったのか?あるいは「宝」とはなんだったのか?少年が少なくとも自己認識の中で望んでいたことは、旅をして世界を発見することであり(第5節)、金ではなかった。なぜ「宝」というものを設定したのかが疑問でした。もうひとつは、結局のところ、なぜエジプトまで行かなくてはならなかったのか。このまとめを読んでくださっている方ならもうお分かりのことでしょうから言ってしまうと、結局のところ宝ってエジプトじゃなくて、最初にその夢を見たスペインの教会にあったやんて。すぐそこやん、数メートル行って掘ったらいいやん。なんで、どうして?最初に言ってくれなかったの?教えて誰か偉い人!
すでにこの記事、超長文になっていますので短めを心掛けつつ、ひとつめのほうですが。これ、第57節、最終的に教会で見つけた「宝」は結局のところ金貨やら宝石やらといった、いわゆる「宝物」っぽい宝でした。が、そこでこの宝箱は「戦利品(conquista)」とも表現されています。また第48節、金は「進化の象徴である」とされています。つまり、この宝には長い旅路を最後まで歩みぬいたことで獲得したもの、成長や進化、そういった金銭的でない価値が凝縮されていると言ってよいでしょう。ついでに言うと錬金術師も金銭的な金(dinero)が命を救うこともあるという実用性を認めていて(第49節と第56節)、砂漠を帰るにあたって自分でつくった金を持ち帰るくらいだから(第54節)、まあ金銭的な価値も、だから、あっていいんです。
さらにもともと希望していた世界の発見も、この旅を通して実現しています。第47節で少年は心に言います、『僕の宝を探すあいだ、僕の毎日は輝いていた』。思えばスペインの手近な町で織物屋のムーアの瞳を持つ娘と結婚して「世界中を自由に旅する喜びを忘れ」てもいいかなとすら思っていた時期があり(第4節)、そこに老王メルキセデクが現れて(第9節)、動き出した物語でした。そこから世界を旅して、進化を遂げたのだから、すごいことだと思います。少年にあっぱれあげましょう、あっぱれぇー。
で、もうひとつのほう。これがちょっと問題ですよね。なんですぐそこに宝があるのに、エジプトまで行かされたの?って。しかもこれ、彼の成長のために旅をさせたんだっていうだけであれば、逆に納得なんです、皆で騙したってことで。でも、結構みんな断言してるんです、第14節の老王は「宝はピラミッドにある」って言ってるし、錬金術師もずっとピラミッド目指してるし、第56節の心に至っては『その場所に君の宝はある』って言ったうえでポイントXで号泣してるし。あ、でも最初の夢の男の子だけは『もしここまで来たら隠された宝物を見つけることができるよ』って、ちょっと匂わせ発言になってるな、「ここにある」とは言ってない・・・(第8節)。
・・・あ!ああーーー!!もしかしてこれ、これが、conspirar!?共謀!?全宇宙が、彼の「世界を知りたい」という願いに呼応して、共謀して旅をさせたとか!?・・・もしそうだとしたらすごいわ。すごいわ。。
ちなみにこのエジプトとスペインの移動というところに関しては、追剥ぎの頭領が見た夢との関連性もとても気になるところでしたよね(第56節)。彼がスペインの教会に隠されている宝の夢を見たのは「およそ二年前」。ではサンチアゴ少年の旅路はどれくらいだったかというと、大きなところでは以下になります。
- タンジェのガラス商人の店での滞在が「十一か月と九日」(第23節)
- キャラバン隊に参加してオアシスに着くまでが「何か月も」(第36節)、これをCか月とします
- オアシスに着いてキャラバン隊長が集会開いたのが「ほぼ一か月になろうというとき」(第37節)
- オアシスを発ってピラミッドに着くまでが「一か月」(第56節)
すなわち11+9/30 + C + 1 + 1 = 13.3 + Cか月、これが確認される行程です。このうちCつまりキャラバンでのタンジェからアル・ファヨウムの行軍期間を推定する必要があるわけですが、Google Mapの計測によると、歩行にして距離4,252km。砂漠では日差しが強いうえに足元も悪い、しかも女子供を含む団体行動なので一日の行軍距離はせいぜい15km、また総移動距離についてもこんな地図アプリをインストールしてる人もきっといなくて進行方向も定まらなかったでしょうから4,500kmあったとします。すると、休みなく進み続けて300日、つまりC = 300 / 30 = 10か月となり、サンチアゴ少年のスペインの夢からエジプトのピラミッドまでの時間はおよそ13.3+10=23.3か月となります。およそ二年前!!すなわち、サンチアゴ少年と追剥ぎ頭領は、同じ時期に、場所を入れ替えただけのほぼ同じ夢を見ていたということになります。これが意味するところは何か。
これは、少なくとも2年前には追剥ぎ頭領も「しるし」を感じることができた、ということですね。全ての人間には私伝説があるのですから。決して初めからサンチアゴ少年の宝の位置を伝えるためのチョイ役だったわけではないと思います。
しかし彼はそれを追い求めることをしなかったので、結果的にチョイ役になってしまった。サンチアゴ少年はエジプトまで来て、何も見つけられなかったが、そこに追剥ぎ頭領がいて「宝はスペイン」と言ったから、スペインで宝を見つけることができた。
とすると、追剥ぎ頭領が夢を追い求めていたらどうなっていたのか?サンチアゴ少年はエジプトまで来て、何も見つけられず、追剥ぎにも会わず、ひとりでチーン?そそそそんなわけない!
きっと、2年前には、それぞれの宝は夢の示した場所、すなわちサンチアゴ少年の宝はエジプト、頭領の宝はスペインにあったのではないかと思います。じゃないと不平等だもんね!しかし頭領はそれを追わず、そして頭領の宝は「永遠に隠されてしまった」(第47節)。サンチアゴ少年の宝はその後、全宇宙の共謀によって、いつの間にかスペインへと隠密輸送されます。大きな楽器の入れ物を使ったかもしれません。これを知っていた人もいれば、知らなかった人もいるのではないかと思います、「全宇宙の共謀」という言葉にはそういった凹凸がありそうな感じがするから。少なくとも少年と別れる直前の錬金術師は知っていた、だけれども美しいピラミッドを見させるために言わなかった(第57節)。
そうは言っても、別にエジプトに埋めっぱなしで良いじゃないかという意見もあると思います。ごもっともです、僕もそう思います、ファティマはんのもとにもすぐ帰れるしね。でも、少年、ジプシーにその宝の十分の一を与えるって、イエスの聖心の肖像の前で誓ってしまってるんですよね(第8節)。これを踏まえて輸送の手間を省くことを考えてくれたのかもしれない。あと第11節で老王メルキセデクが言うように、「まだ持っていないものを約束」してしまったことで、何かが狂ったのかもしれません。あ、うん、なんだかそういう気がしてきました。夢を見たときにはエジプトにあったが、イエスの聖心の肖像の前で十分の一を誓ってしまったし、追剥ぎ頭領も諦めたってことで、宝はスペインに移ったと。そんなこと、ありそうな気がしませんか?
「夢」という言葉が面白いという話を第12節の後書きでサラッと書いてたけど、面白いもなにも。面白すぎでしょう。
本作のつくり
ここまでで予定を大幅に超えるボリュームなので、これは本当に、短めに抑えたい。抑えたいが、書きたいことは書くぞ。
ここで書きたかったのは、本作に出てくる仕掛け、それぞれどういう意味なんだろうっていうものです。例えば「戦争」という話が出てくるのはなぜだろう、というのを上で書きましたが、そういう類の話です。
ふたつにします。イギリス人の役割と、ラクダ引きの役割です。
イギリス人は結局最後まで名前で呼んでもらえませんでしたが、それはガラス商人も錬金術師も同じなので勘弁してやってほしい。それよりも彼が登場した第25節以降、一気に錬金術と錬金術師に関する情報が豊富に提供されるようになった。しかもたくさんの書物をもたらしてくれた。彼の功績は甚大です。
このイギリス人は、しかし、知識は豊富だが大事なことをはき違えており、キャラバンの旅を通しても砂漠から何のしるしを見つけることもできない(第32節)、「錬金術に憧れを抱くありがちな勘違い者」といった位置づけで登場していると思います。十年間の勉強ののちにキャラバンに参加している(第25節)から、心がもっぱら語り掛ける対象としている「子ども」の時期も過ぎていることでしょう(第47節)。そんな彼も、オアシスで錬金術師に出会い、砂漠を見始めた。第43節で錬金術師が「適切な道のりにいるよ」と言ったのは本人に聞かせてあげたい台詞です。
そしてこのイギリス人にたくさんの本を持たせて少年に読ませたのは良かったなあと思います。大切なことは一枚のエメラルドの板に書けてしまうほどだけど(第32節)、第30節あたりではいろんな本をサンチアゴ少年に読ませて錬金術についての概観を示していきます。これは、仕組みとしてはちょっと見え透いた感じもするけど、うんまあ自然っちゃ自然でよかったなあと思いました。
もう一人はラクダ引きです。彼は第46節で少年に「彼はそうと知ることなく師だった」と言わしめる存在でした。そして第28節と第33節さらに第39節と、複数回にわたってその過去の回顧や価値観の表現がなされています。
しかし彼は飽くまでもラクダ引きなんです。災害に心惑わされたり、未来を占って欲しがったりという普通の過去があり、そして今は「現在だけがあって、それだけが僕の関心なんだ」(第33節)と超越したような様子を見せる彼ですが、別に世界の言語を理解しているわけではなく、ラクダ引きなんです。
なんとなくですが、作者のお気に入りというか、ひとつの理想形として、このラクダ引きが登場している気がします。サンチアゴ少年や錬金術師のようなスーパーマンではない一方で、イギリス人のように愚かでもないし、ガラス商人のように臆病でもない。特別なことはできないが、ただ素直に今に集中して今を生きている。戦争の話にも泰然自若とし、「人生はお祭り(fiesta)」(第33節)と言ってラクダを引いて生きる彼は、目指すことのできるひとつの理想の人物像として描かれているように思いました。(最近アルベール・カミュの「ペスト」も読んだんですが、ここに出てくる小役人「グラン」と位置づけは似ている気がしました。)
ぐはぁ。驚異的な長さになりました。時間もものすごくかかりました。一緒に書く予定だった「感想」はまた日を改めて書くことにしようと思います。
だらだらと長く書きすぎ、読みにくかったかと思いますが、読んでくださった方は本当にありがとうございました。「これ解釈がおかしいんじゃない」とか「もっとこんな場面もあるよ」とかあれば、ぜひコメントいただけたらと思います。(※「もっとこれも解釈してみろ」は、対応するかどうか考えさせていただきます。)
写真です。昨日に引き続き「せっかくなので」写真を。日本人の皆さんがあまり行くことのなさそうな場所として、ウズベキスタンの首都タシュケント、アミール・ティムール広場に面したホテルから撮った一枚です。「青の都」と呼ばれる世界遺産都市サマルカンドの圧倒的にきれいな写真とかもあるんですが、これは検索すれば大量に出てくる写真とあまり変わらないものしか撮れていないのです。だから、そっちはぜひ検索していただくことにして(本当に美しいですよ!)、ここではタシュケントです。いや、これもなかなか面白い光景だと思ったんです。車線多!車少な!公園広!人少な!緑多!建物低!とかね。とても興味深い国でした。2012年9月。